読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

自信教人信の記

〈じしんきょうにんしんのき〉阿弥陀如来の本願、浄土真宗の先生達の思想について、自らの信心、思索を深め、人にも伝えようとするものです。

縁というもの

前々回のところで、浄土真宗の一般的なイメージというものをお話ししました。私が現在安心して生きている基となっているのは、親鸞聖人にその由来があるとはいえ、明治期に清沢満之(まんし)という方が再興した思想なのだということを、ここに記しておきます。


暁烏敏、曽我量深の両先生は清沢先生の教えを受けています。暁烏先生は、メジャーどころである講談社学術文庫の『歎異抄講話』によって昔から知っていました。しかし、清沢、曽我、安田先生を知ったのは去年のことです。日本史の教科書にも載っていなかったと思いますし、『歎異抄講話』でも言及されていなかったはずです。もっと前からその存在を知っておくべきだった稀有な先生方ですが、私は30歳を過ぎてからようやく教えてもらったわけです。そして、どうして教えてもらったかといえば、本当に偶然の出来事からなのでした。


新宿の紀伊国屋書店で、暁烏先生の書いたものを探していると、一人の老人が声を掛けてきました。曰く、「清沢満之に興味があるのなら、是非この安田理深の本を読んでみて下さい。清沢満之、曽我量深の流れを汲んでいます。清沢満之と似て論理的で、私が編集をしたものでもあります」。いきなりセールスを仕掛けられて驚き、また清沢先生に特に興味があったわけでもなかったのですが、率直さに圧されて俄かに面白そうだと思い、結局その本を購入して帰りました。それが『信仰についての対話』でした。そして安田先生から波及して、清沢、曽我先生の本も読んでいます。


あの老人の勧めがなかったら、三人の先生との出会いはもっと後になっていたでしょうし、出会わずに死んでしまっていたかも知れません。縁とか運命とかは不思議なものです。悪いこともあれば、この件のようなこともあります。もしかすると如来の回向が働いたのかも、なんてことも思ったりしました。


南無阿弥陀仏

法蔵菩薩の十八願

前回は、浄土真宗について一般に流布しているだろうイメージと、その問題点に関するお話をしました。死後の世界が有るのか無いのか、またどんなものであるのか。私は実際に行ったこともなければ、科学的に証明も出来ないと思いますので語ることはしません。大事なことは、南無阿弥陀仏によって、今現在、往生に続く道を歩ませてもらっているということです。そしてそのことにより、安心して生きていくことが出来ます。

 

さて、浄土真宗の核心である「南無阿弥陀仏」のお話を始めたいと思います。南無阿弥陀仏という言葉は、「南無」と「阿弥陀仏」の二つに分けることが出来ます。南無とは、辞書には「仏・菩薩・経などを信じ敬い、それに帰依することを表す語。一般に帰依の対象となる語をそのあとに付けて感動詞的に用いる」とあります。南無と帰依する、頭が下がる、ということです。阿弥陀仏は、勿論、阿弥陀如来の名前です。つまり南無阿弥陀仏とは、私は阿弥陀如来に帰依しますという意味です。また如来の名を称えることから、(称名)念仏といいます。

 

では、何故私達はこの南無阿弥陀仏を称えるのでしょうか。その根拠は、浄土三部経と呼ばれる浄土真宗の三つの聖典、『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』のうちの、『無量寿経』に現れる如来の四十八項の願にあります。この四十八願阿弥陀如来が仏に成る以前、法蔵菩薩という修行僧であった頃に「私が仏と成る時に……でなかったとしたら仏には成らない」と、師である世自在王仏に誓った願(誓願)です。そしてこの中の、十八番目の願が南無阿弥陀仏と特に関係しています。十八願とは、

 

たとい、われ仏となるをえんとき、十方の衆生、至心に信楽して、わが国に生れんと欲して、乃至十念せん。もし、生れずんば、正覚を取らじ。ただ、五逆(の罪を犯すもの)と正法を誹謗するものを除かん。

(たとえ私が仏に成るとしても、全ての人々が、心を尽くして信じ願い、私の浄土に生まれたいと欲し、十度ばかりでも念仏する、もし生まれないならば仏には成らない。ただ五逆罪を犯すものと正法を誹謗するものは除く。)

 

そして、この願を含めた四十八願が成就しているので、心から阿弥陀如来を信じて浄土に生まれたいと願うものは往生することが出来るのです。阿弥陀如来に南無する。これが南無阿弥陀仏の由来であり、浄土真宗のエッセンスです。

 

自分の力では苦しみや不安は如何ともし難いと分かった人、死んでしまったほうが楽なんじゃないかと思い詰めてしまっている人は、南無阿弥陀仏の生活を始めてみてはいかがでしょうか。大いに励まされて生きていくことができます。

 

さて、何故、法蔵菩薩は十八願のような途方もない願を立てたのでしょうか。わざわざ「正覚を取らじ」という文言を付けなくてもよかったはずです。仏は無数におりますが、このような願を立てたと伝えられているのは法蔵菩薩だけです。思うに、法蔵菩薩自身が宿業の問題に非常に悩んでいたため、自分自身のことと同じように人々を憐れみ、「たとい、われ仏となるをえんとき…」という願を立てたのではないでしょうか。これは法蔵菩薩の大悲心と呼ぶ他ありません。無数の仏がいる中で法蔵菩薩だけがこの願を立てたと考えるなら、この願はあり得べからざる中にさらに有難いといえなくはないでしょうか。

 

親鸞聖人も法蔵菩薩の大悲心を賜り、誓願は親鸞一人がためなりけりと仰いました。自分には弟子は一人もいないと仰るのに、どうして亡くなる直前まで経釈を綴っていたのかを考えると、おそらく法蔵菩薩の願に対する感謝と恩返しの気持ちからだったのではないかと想像せざるを得ません。

 

結果的に親鸞聖人の弟子と呼べる人が多く生まれ、阿弥陀如来への信仰は現在にまで続いてきています。自信教人信とは言いますが、第一に法蔵菩薩の大悲心に感謝する心を持つことが必要だと感じています。

 

南無阿弥陀仏

浄土真宗の一般的イメージ

一般的に、浄土真宗のキーワードといえば「南無阿弥陀仏」と答える方が多いのではないかと思います。そして実際にキーワードなわけですが、このブログではそのことにあまり触れてきていませんでした。自己紹介と勉強方法を通して少しずつ宗教を紹介してきましたが、そろそろ南無阿弥陀仏という浄土真宗の核心についてお話ししていきたいと思います。

 

その前に、浄土真宗について流布しているイメージを考えてみたいと思います。それは「南無阿弥陀仏を称えれば、死後に浄土に迎え取られる」というようなものではないでしょうか。この世は救いがたいほど苦難に満ち満ちており、自力では如何ともし難い。南無阿弥陀仏を称え、阿弥陀如来にすがって、死後に安楽な浄土に救い取って頂こう。大まかにはこのようなイメージでしょう。話として、ある種の考え方として分かりやすいですし、徳川幕府の人民統治の手段とも合致したと暁烏敏先生は仰っています。

 

このイメージで問題になるのは、①浄土とは何なのか、②そこに至るのは死後なのか、ということです。『観無量寿経』に、浄土を想像する方法が書いてありまして、それはそれはきらびやかな世界のようです。まあ形のことはさて置いて… 現在、私たちは人間として生まれる以前の過去世からの因縁(宿業)によって、悩み、苦しみ、不安を感じながら生きています。そしてこれを解消したいと願っています。浄土に生まれさせて頂ければ、仏に成ることが出来(成仏)、それは宿業から解放されることなのです。故に浄土とは、端的に言えば悟りとか涅槃とか呼ばれるものです。

 

次に、浄土に至るのは死後なのかという問題ですが、『無量寿経』には「(如来が)寿(いのち)の終る時に臨み」とあり、死後というわけではなさそうです。ただ、死後か死後でないかという話は、浄土に至るのがいつかということよりも、苦しみが除かれるのがいつかということと特に関係があると考えています。「往生」という言葉は浄土に往って生まれるという意味ですが、往く過程というのは南無阿弥陀仏を称えた時から始まっています。この世で生きている限り宿業の身ですから、苦しみや不安が完全に無くなることはありません。しかし、浄土への往生の過程にいると実感すると、大変楽になってくるのは確かです。

 

以上、浄土真宗のイメージとその問題点を考えてみました。次回から、南無阿弥陀仏と他力についてお話ししていきたいと思います。

 

南無阿弥陀仏

宗教書の読み方Ⅱ 〜比較研究的態度のメリットとデメリット〜

今回は、宗教書を読む際に比較研究的態度をもって臨むことの、メリットとデメリットについてお話ししたいと思います。ここでいう比較研究とは、二つ以上の対象について、それぞれがどのような特徴を持つか追求し、さらにどのような共通点・相違点があるかを示すことを言います。

 

メリット

 

例えば、仏教もキリスト教もそれぞれ独自の体系を持っています。信仰の対象、目的、人々の生活指針、説教物語等々。ところで仏教だけを学んでいるとすると、キリスト教がどんな体系を持っているか知ることは出来ません。他者を理解する努力を怠ると独善に陥りやすくなることはお分かりになると思いますが、宗教でも同じことが言えます。お互いの立場を尊重することは個人同士の場合と同様、大事なことです。

 

ただ、私が強調したい比較研究のメリットは別のことです。仏教もキリスト教も独自の体系を持っていると言いましたが、共通点も勿論あります。成立した時代も場所も異なっているのに共通点があるが、そのことにはどういう意味があるのか。比較研究的態度で臨むと、先ずこのような問いが立てられます。これが第一のメリットです。

 

上の問いが立てられることが何故重要かといえば、共通点がある、つまり人々が宗教に求めているものは似通っているかも知れない、ということに気付くことが出来るからです。求めているものが似ているならば、欲求の根も似ているのだろうと考えることが可能です。この問いを推し進めていけば、人間と宗教の関係の本質や普遍性への理解を深めていくことが出来ます。

 

共通点が分かると、異なっている点が際立ってきます。これが第二のメリットです。同じ内容を別の表現で表しているということだけでなく、全く別の何かを語っているということにも気付くことが出来ます。その宗教の独自性を理解出来るだけでなく、人間存在の捉え方の多様性を発見することが出来るのです。

 

デメリット

 

宗教を学んでいく上で「出来る」ことが増えるのが、比較研究的態度のメリットでした。しかし、メリットにはデメリットも付き物で、使い方を誤ると弊害も出てきます。それは相対化の誘惑です。

 

複数のものを比較していくと、必ず相対化して見てしまうという誘惑に駆られます。入門書だけをいくつも読んでいるような、表層的な理解しかないうちは特に相対化してしまいがちで、本質的な理解からどんどん離れていってしまいます。例えば、キリスト教の「永遠の命を得る」という話を聞いて、それは「不退転の位を得る」と同じかな、と字面の違いばかり追いかけていって中身まで踏み込めない状態です。キリスト教ではこう、仏教ではこう、と表面の浅い知識だけが増えていってしまいます。研究者ならそれでもいいのですが、このブログが想定する読者の皆さんには気を付けて頂きたいところであります。

 

南無阿弥陀仏

宗教書の読み方Ⅰ 〜宗教書の種類と読書論〜

 

これまで、私の宗教との出会いについてお話ししてきました。未だ、私が「南無阿弥陀仏」と言いつつある経緯に関してはお話ししていませんが、今回は話題を変えて、宗教書の読み方について思うところを披瀝したいと思います。

 

宗教書の種類と対象

 

一口に宗教書と言っても様々な種類のものが存在しています。ざっと挙げてみると、

 

①ある宗教の概要を説明するような入門書。信仰の対象、歴史、どんな宗派があるか等を、興味はあるけれども何も知らない人達に向けて書かれたもの。宗教体験の入り口になり得るかも知れない。

 ②キリスト教の聖書や仏教の経典(原典)などを文献学的に分析する論文。その原典の成り立ち、著者、成文年等を、同時代の文献と比較しながら検証していく。宗教的というより史学の趣きが強い。

 ③様々な宗教を、「宗教」という大枠で捉え比較研究する研究書。この宗教とあの宗教ではかくかくの共通点があり、またしかじかの相違点がある等々、文化人類学的視点から分析している。

 ④原典を逐語的に注釈していく、専門家向けの解説書。単語・文脈の意味・意義の解明に重点を置いている。その宗教を歩んでいる人、研究者向け。

 ⑤宗教的実践とその方法を教える著書。経、聖書、コーラン等。

 

というようなものが出てくると思います。これらは著者の興味や狙うところが違えば、対象となる読者も違います。それ故、想定外の読者が読んでも、面白くもない上に理解も出来ないということに陥ってしまいます。我々読者側は、自分が一体何を求めてその本を読もうとしているのかをはっきりさせておくことが必要です。仏教に興味があるけれどもどこから手を着けていいかわからないという人は、初めに①の入門書を読むのが順当で、いきなり②文献学的論文とか④注釈書を読んでも、何が書いてあるのか理解出来ず、興味も失ってしまう可能性があります。

 

読書には「前提」が必要

 

読書一般に共通することですが、あらゆる本には読むために前提とされるものがあります。それは、言語・歴史・文化的知識、専門知識、性状、立場、人生経験など様々です。例えば、小説を最も深く味わおうとするなら、舞台の地理的な環境、時代背景、どの文化圏に属するか等を先ず把握しなければなりません。そして登場人物の言動・心情を理解するためには、読者自身が似たような境遇にあったり、感情を抱いたことがある──程度の差はあるにしても──か、相応の想像力を鍛えておかなければなりません。

 

私が高校生の頃、ドストエフスキーを読んでもイマイチ理解出来なかったのは主にキリスト教の知識が足りなかったからですし、現在、曽我量深先生や安田理深先生の講話録がなんとなく理解出来るのは、この数年間、仏教関連の本を多く読み、かつ自分に引き当てて考えてきたからだと思います。

 

小説や人文科学系の著書と比べて、前提が無ければ話を聞いても理解出来ないということがよりはっきりするのが、数学や自然科学系のものでしょう。ある命題を理解するには、その命題を構成する別の命題を理解しなければなりませんし、またその命題を理解するにはまた別の命題…と続くので、一歩目から専門知識が必要です。知識が無いまま何度眺めてみたところで、書かれていることを理解出来る日は来ないでしょう。

 

今回は、宗教書を大きく5種類に分けて紹介し、また読書には前提が必要であることをお話ししました。次回は、「比較研究的態度」が宗教書理解にどのように働くかについてお話ししようと思っています。

 

南無阿弥陀仏

 

東日本大震災の日に思ったこと

2011年3月11日、東日本大震災が起こりました。この震災による死者・行方不明者の合計は18,456人に上りました。この未曾有の災害に対して、仏教者も何か出来ることがないかと考えたことと思います。テレビの報道で観たのは、「死者に対してお経をあげ続けることが私の出来ること」と語っていた僧侶の姿でした。葬式仏教と揶揄されるように、お経をあげることが僧侶の仕事だというのが現在の仏教に対する一般的なイメージだと思いますし、もしかするとこの僧侶も同じように思い込んでいたのかも知れません。しかしながら、お経に死者を成仏させる効能はありません。突き詰めて考えると、成仏を願って唱えるお経は自己満足でしかありません。ただ、もし遺族の方が僧侶のあげるお経でもって安心感を得ることが出来るとしたら、一定程度意義があることだとは思います。

 

日常的にも感じることですが、人間の力には限界があります。やろうと思ってもやれないこと、やりたくなくてもせざるを得ないことが山ほどあります。日常の瑣事においてもそうであるのに、ましてや、人間が死者を成仏させるようなことが出来るわけがありません。『歎異抄』第4条に、「おもふがごとくたすけとぐること、きはめてありがたし。」「今生に、いかにいとほし不便と思ふとも、存知のごとくたすけがた」い、とあるように、死者、その遺族に対してすべきことはお経をあげて救おうとすることではありません。

 

自力の可能性を考え抜けば、自分が他人に対して出来ることなど殆ど無い、という真理は自ずと明らかになります。しかしこのことは、自分が何もすべきではないということに繋がるわけでは決してありません。仏教者には仏教者の、やるべきことがあります。

 

還相回向

 

浄土真宗には「回向」という言葉があります。「回向」は「想いを差し向けること」を云います。そして、回向には「往相」と「還相」の二種類の方向があります。往相回向は、自分が浄土に往生したいと願うこと意味します(「欲生」=生まれたい願う、と言ったりします)。還相回向は、仏に成った暁にこの世に還り、仏の力でもって人々を往生させたいと願うことを意味します。同じく『歎異抄』第4条に「浄土の慈悲といふは、念仏して、急ぎ仏になりて、大慈大悲心をもつて、おもふがごとく衆生を利益するをいふべきなり。」「念仏申すのみぞ、すゑとほりたる大慈悲心にて候ふべき」、とあります。

 

仏教者として真に人々を苦悩から救おうと願うのであれば、先ず自分が仏になる必要があります。そうすれば、思うが如く人々を救うことが出来るようになるからです。自力で他人を救おうとするのは仏教者の仕事ではありませんし、出来ないからといって悩む必要もないことです。仏教者は自身のやるべきこと──先ず自分が仏に成ること──を心に留めておくべきでしょう。

 

当然このブログは、読んで下さった方の全てを救おうなどとは考えていません。一人でもいいので、人生のつまらない問題で悩んだり苦しんだりしないで、気楽に生きていってもらえたらなと思うばかりです。

 

宗教との出会いⅤ 〜『歎異抄講話』を読み始める〜

前2回は、私が数年の間キリスト教を勉強してきたけれども信仰にまで至らなかった、というお話をしました。このブログの主な目的は、第一回で示したように、「自信教人信の実践にあります。私自身の信心を深めていくと共に、人生の問題に悩んだり、不安を感じながら生きている人に、安らかな気持ちで日々を過ごすことが出来る道をお伝え」することです。

 

では何故、長々とキリスト教についてお話ししてきたかといえば、第一に私の宗教的なバックボーンを明らかにしなければならないと思ったから、第二にそれが「方便」になると考えたからです。

 

方便という言葉は日常的にはあまり良い意味で用いられませんが、仏教においては、真実に導くための手段・方法のことをいいます。それは時に遠回りだったり、婉曲であったりします。もしこのブログを読んでいる方が、私と同じようにキリスト教ではモヤモヤが晴れない、苦しみが除かれないと感じているのなら、この先もう少し付き合ってみれば答えが見つかるかも知れない、と感じてもらえる可能性があります。これが、方便と考える理由です。

 

浄土真宗との出会い

 

浄土真宗の勉強を始めたのは、大学を卒業して少し経ってからだったと記憶しています。仏教には数多くの宗派がありますが、倫理的でも道徳的でもない自分が、成仏するために戒律を守らなければならない宗派を選んでも先は無い、ということを理解していたのでしょうか。それとも、かつて祖父の葬儀の際に浄土真宗のお坊さんが「今は分からなくてもいいので、とりあえず南無阿弥陀仏と称えて下さい」と言っていたのを強烈に覚えていたのでしょうか。

 

とにかく、講談社学術文庫から出ている『歎異抄講話』を読み始めました。歎異抄については今後、詳しく紹介する機会を持つと思いますが、浄土真宗の開祖である親鸞聖人の死後、教義の乱れたことを嘆いた弟子の唯円大徳が、親鸞聖人の語ったお言葉とその意義について伝えて下さったものです(著者については他の説もあり)。そして『歎異抄講話』では、著者である暁烏敏先生が歎異抄を親切に詳しく教えて下さっています。この本はその後、私のバイブルとなるものです。

 

今回は、ようやく浄土真宗に出会ったというところで終わりたいと思います。

南無阿弥陀仏

 

歎異抄講話 (講談社学術文庫)

歎異抄講話 (講談社学術文庫)