自信教人信の記

〈じしんきょうにんしんのき〉阿弥陀如来の本願、浄土真宗の先生達の思想について、自らの信心、思索を深め、人にも伝えようとするものです。

縁というもの

前々回のところで、浄土真宗の一般的なイメージというものをお話ししました。私が現在安心して生きている基となっているのは、親鸞聖人にその由来があるとはいえ、明治期に清沢満之(まんし)という方が再興した思想なのだということを、ここに記しておきま…

法蔵菩薩の十八願

前回は、浄土真宗について一般に流布しているだろうイメージと、その問題点に関するお話をしました。死後の世界が有るのか無いのか、またどんなものであるのか。私は実際に行ったこともなければ、科学的に証明も出来ないと思いますので語ることはしません。…

浄土真宗の一般的イメージ

一般的に、浄土真宗のキーワードといえば「南無阿弥陀仏」と答える方が多いのではないかと思います。そして実際にキーワードなわけですが、このブログではそのことにあまり触れてきていませんでした。自己紹介と勉強方法を通して少しずつ宗教を紹介してきま…

宗教書の読み方Ⅱ 〜比較研究的態度のメリットとデメリット〜

今回は、宗教書を読む際に比較研究的態度をもって臨むことの、メリットとデメリットについてお話ししたいと思います。ここでいう比較研究とは、二つ以上の対象について、それぞれがどのような特徴を持つか追求し、さらにどのような共通点・相違点があるかを…

宗教書の読み方Ⅰ 〜宗教書の種類と読書論〜

これまで、私の宗教との出会いについてお話ししてきました。未だ、私が「南無阿弥陀仏」と言いつつある経緯に関してはお話ししていませんが、今回は話題を変えて、宗教書の読み方について思うところを披瀝したいと思います。 宗教書の種類と対象 一口に宗教…

東日本大震災の日に思ったこと

2011年3月11日、東日本大震災が起こりました。この震災による死者・行方不明者の合計は18,456人に上りました。この未曾有の災害に対して、仏教者も何か出来ることがないかと考えたことと思います。テレビの報道で観たのは、「死者に対してお経をあげ続けるこ…

宗教との出会いⅤ 〜『歎異抄講話』を読み始める〜

前2回は、私が数年の間キリスト教を勉強してきたけれども信仰にまで至らなかった、というお話をしました。このブログの主な目的は、第一回で示したように、「自信教人信の実践にあります。私自身の信心を深めていくと共に、人生の問題に悩んだり、不安を感…

宗教との出会いⅣ 〜神との繋がり方・キリスト教の歴史〜

今回は二つ、私がキリスト教徒ではない訳をお話しします。 神のいる場所、神との繋がり方 新約聖書の主役はイエスです。それは何故かと言うと、勿論、イエスが十字架の奇跡により神と人間との間に新しい契約を結んだと、記者達が考えているからです。イエス…

宗教との出会いⅢ 〜神の性格〜

前回は、ヨハネ福音書の神と人間の関係と、浄土真宗の阿弥陀如来と人間の関係には似ているところがある、ということをお話ししました。それは、人間は自力や我執といった自らのはからいを捨てれば永遠の命を得る、という点でした。 ところが、私が現在、阿弥…

宗教との出会いⅡ 〜ヨハネ福音書〜

前回は、私がキリスト教と出会ったきっかけと、神の性格が旧約聖書から新約聖書へ移るにつれ、どのように変化していったかについてお話ししました。今回は、神と人間との関係、神と私がどう付き合っていくことになったかについてお話ししたいと思います。 ヨ…

宗教との出会いⅠ 〜キリスト教の神について〜

私と宗教との出会いは、16年前の高校一年生の今頃だったと思います。 ドストエフスキーから 有名な作家の本を読んでみよう、という単純な動機から、ドストエフスキーの小説を読み始めました。先ず最初に、一番その名が知れ渡っているであろう『罪と罰』に手…

罪と罰

今回は、宗教における「罪と罰」の概念についてお話ししようと思います。 仏教における罪とは、人間本来の存在であるところの宿業の身を忘れ、妄想によって作り出された、妄想の世界で生きていることをいいます。自我に執着し(我執)、現在の自分がどうして存…

安心と不安と

私は、阿弥陀如来の本願を信じて、安心して生きているのですが、反対に、安心して生きていないとはどのようなことでしょうか。 安心が無い、というのは「不安を抱えつつ」ということでしょうが、これは恐らく、多くの人に当てはまることと思います。仏教では…

「自信教人信」と本ブログの目的

浄土真宗には、「自信教人信」という言葉があります。これは、阿弥陀如来の本願を自分が信じ、他の人にも信じるよう勧めることをいいます。 七高僧の一人、善導大師の『往生礼讃』に「みづから信じ人を教へて信ぜせしむること、難きが中にうたたさらに難し。…