自信教人信の記

〈じしんきょうにんしんのき〉阿弥陀如来の本願、浄土真宗の先生達の思想について、自らの信心、思索を深め、人にも伝えようとするものです。

罪と罰

今回は、宗教における「罪と罰」の概念についてお話ししようと思います。

 
仏教における罪とは、人間本来の存在であるところの宿業の身を忘れ、妄想によって作り出された、妄想の世界で生きていることをいいます。自我に執着し(我執)、現在の自分がどうして存在するのかを忘れていることです。現象としては、前回話した、自分で出来ることとそうでないことを混同して生きている状態です。
 
キリスト教でも同様なことが言われています。所謂「原罪」と言われるものは、神の命に背いて知恵の実を食べてしまったことですが(旧約聖書 創世記)、個々の人間の罪とは、神と離れた状態、つまり人間の唯一の拠り所である存在を忘れて生きている事実を指します。人間は自身の力だけで生きている、という妄想です。
 
宗教における罪とは、人間の決め事である倫理・道徳から道を踏み外していることではありません。
 
そして、罪の果である罰とは、その妄想により苦しんでいること自体をいいます。自力を頼んで、どうすることも出来ないことに対して思い悩み、安心して生きていられないということです(キリスト教の方面からだと、キルケゴールが「絶望」と呼んでいるところの状態です)。我執という妄想の果である罰もまた妄想です。
 
宗教のエッセンスとは、その妄想を取り除き、「絶望」を排し、現在の環境に安んじて生きられるようにすることです。
 
安田理深先生は「不平不満があるのが地獄ではないですか。人間の世界に生きることに不平不満があるということから、解脱しなければならない。どんな境遇でも、地獄の中にあっても安楽であると、安心しておられる境地を見出したのが宗教です。」と言っておられます。(『信仰についての対話Ⅱ』51頁)
 
罪と罰」の基本的概念については以上の通りです。大雑把に話してしまったので、細かい点については今後、テーマとして取り上げたいと思います。