自信教人信の記

〈じしんきょうにんしんのき〉阿弥陀如来の本願、浄土真宗の先生達の思想について、自らの信心、思索を深め、人にも伝えようとするものです。

宗教との出会いⅡ 〜ヨハネ福音書〜

前回は、私がキリスト教と出会ったきっかけと、神の性格が旧約聖書から新約聖書へ移るにつれ、どのように変化していったかについてお話ししました。今回は、神と人間との関係、神と私がどう付き合っていくことになったかについてお話ししたいと思います。

 

ヨハネ福音書

 

キリスト教が人類の歴史に及ぼした影響については、専門の研究者の方々が多くいらっしゃるので、ここでは敢えて触れることをしません。ただ新約聖書ヨハネ福音書の中で、イエスが神と人間の関係に関して何を語っているのかは見たいと思います。ヨハネ福音書は私が大学生の頃に専門で研究していたこともあり、多少は詳しく話すことが出来ます。また、核心部分において浄土真宗の教えに通ずるところがあります。

 

私の卒業論文のテーマは「ヨハネ福音書におけるζωηとΨυχηの使用法」というものでした。ヨハネ福音書には、二つの別々の単語であるにも関わらず、同一の”命”という訳を与えられているものがあります。その一つがζωη(ゾーエー)で、もう一つがΨυχη(プシュケー)です。親切な日本語訳だと、”命”と”いのち”というように分けてくれているものもあります。

 

使用回数は圧倒的にζωηのほうが多く、この福音書が説こうとしているキーワードであることが読み取れます。反対にΨυχηは数えるほどしか使われません。さらに、ζωηには枕詞として「永遠の」という言葉がよく付されており、神的かつ肯定的なイメージを与えます。Ψυχηの使われ方は、「Ψυχηを捨てれば永遠のζωηを得る」や「自分のΨυχηを愛する者はそれを失う」等が代表的です。

 

私は、ζωηとΨυχηの使われ方から、次のような結論を導きました。ζωηは、「永遠の」や「得る」といった言葉が共に用いられることや、イエスがしきりに称揚することから、それこそが人間が求めるべき究極のものであり、神が人間に与える約束をしたものです。具体的に何を指すのかについては、最後の裁きの時に墓から蘇らされる約束なのか、「永遠の相」から人生を観察出来る精神状態なのか、日々を力強く生きていくことが出来る源泉なのか等々、諸説があります。Ψυχηは終始、不要なものとして扱われています。不要なものだけれども容易には捨てられない、そのようなものです。

 

ヨハネ福音書では、人間はΨυχηを捨てれば、ζωηを得ると宣べ伝えています。そして、これを証しするのが、イエスが十字架刑から復活した奇跡、つまりイエスは神に愛された子であり、キリストである、という事実です。神の子であるキリストが語っているのだから事実に違いない、ということです。ちなみに、新約聖書では十字架の奇跡を信じることが基礎中の基礎です。奇跡は理屈に合いません、それ故、信仰の躓きの石と言われるのです(「そんなことあるわけないじゃないか。全く信じられない。」と)。キリスト教は、その躓きの石に躓かないでさらに一歩踏み出せたところにある、と認識しております。

 

 

tachiwada.hatenablog.com

 

Ψυχηはこの回で触れた、自力根性や我執に近いものだということは、浄土真宗を勉強し始めてから気が付きました。キリスト教と浄土真宗の核心はよく似ているように見えます。しかし、当然のことながら他はまるで別です。我執を離れれば神に守られ力強く生きていくことが出来る、このフレーズだけは似ています。ただ、私にとってどうだったかというと…

 

続きは次回以降です。南無阿弥陀仏