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自信教人信の記

〈じしんきょうにんしんのき〉阿弥陀如来の本願、浄土真宗の先生達の思想について、自らの信心、思索を深め、人にも伝えようとするものです。

宗教との出会いⅢ 〜神の性格〜

前回は、ヨハネ福音書の神と人間の関係と、浄土真宗の阿弥陀如来と人間の関係には似ているところがある、ということをお話ししました。それは、人間は自力や我執といった自らのはからいを捨てれば永遠の命を得る、という点でした。

 

ところが、私が現在、阿弥陀如来の本願を信じて安心して生きているのに対し、ヨハネ福音書を学んでもそういう様にはいかなかったのです。核心の部分が似ているのに何故なのか。それには色々な要因があったように思います。それらについて数回に分けてお話ししていきます。

 

本来はイスラエルの神である

 

新約聖書に至り、神は赦しの性格を得るようになり、万人に受け入れられやすくなりました。しかし、この神がイスラエルの神であることには変わりなく、十戒の「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」という項が消えたわけでもありません。キリスト教一神教と呼ばれているように、他の神々を排斥する性格を持っていることは明らかです。

 

日本で生まれ育った私には、万物に神が宿るという多神教のほうが馴染み深く、他の神々の存在を許さないような神は不寛容だなと単純に思いもします。

 

翻って仏教の方面から見ると、ヒンズー教の神々とは強大な力を持っているけれども、決して絶対的な真でも善でも美でもなく、むしろ位でいうと仏の下に当たります。インドのの神々と同じように、日本の神々もギリシャ神話の神々も、日本神話やホメロスの詩を見れば明らかなように、「絶対」という性格は持っていないようです。キリスト教の神も、元々は数多くいる神の一人だったのですが、イスラエル民族に安住の地を与える約束と引き換えに、自身のみを絶対の神として崇めよと迫ったのです。

 

新約聖書だけを読むと、キリスト教の神は全ての人間のための、唯一存在する神と見えなくもないですが、旧約聖書を完全に切り離して考えるのは非常にナンセンスです。人間が自分たちの都合のいいように、この神を作り変えていると言ってもいいでしょう。やはりこの神の代表的な性格は、他の神々を排斥するけれども、自身を信じ、敬う者には永遠の命・力を与える、というものだと思います。

 

キリスト教の教えを信じる人々にとっては、唯一絶対の神であることは間違いありませんが、信じない人にとっては数多くいる神の中の一人です。私はキリスト教関連の古典的な著作も沢山読みましたし、一度は韓国人宣教師の話を聞きに行ったこともあります。けれども、今に至るまで信じることが出来ていません。要するに「性格が気に入らないから信じる気にはならない」ということです。

 

今回は神の性格という観点から、私が信じていない理由の一つをお話ししました。「では、あなたが信じている阿弥陀如来はどうなのか?」という質問が挙がると思いますが、それについては何回か先にお話し出来ると思います。

 

南無阿弥陀仏