自信教人信の記

〈じしんきょうにんしんのき〉阿弥陀如来の本願、浄土真宗の先生達の思想について、自らの信心、思索を深め、人にも伝えようとするものです。

宗教との出会いⅣ 〜神との繋がり方・キリスト教の歴史〜

今回は二つ、私がキリスト教徒ではない訳をお話しします。

 

神のいる場所、神との繋がり方

 

新約聖書の主役はイエスです。それは何故かと言うと、勿論、イエスが十字架の奇跡により神と人間との間に新しい契約を結んだと、記者達が考えているからです。イエスは生前から復活を予言しており、それがまさに履行されたという事実から、イエスは神に愛された神の子=救世主(キリスト)であったと思い至ったわけです。

 

イエスが生まれた頃、パリサイ人という司祭階級が神と人間との間のやり取りを牛耳っており、そこには多分に政治的・経済的な権益も存在していたようです。一般大衆はこの司祭階級を通してしか、神と接点を持つことが出来ませんでした(イエスが十字架刑に処された理由の一つは、イエスが彼らの特権的地位を批判し大衆の心を翻してしまったことでした)。そして、イエスが復活したという事実から、この十字架の奇跡とイエスの言葉を信じることで、神との関係を取り戻そうという流れが生まれたのです。

 

ここに、キリスト教の、神と人間との繋がり方のポイントがあります。人間は、イエス・キリストを通して神と接します。このことは、イエス・キリストを通してでなければ神と接することが出来ないということを意味します。イエスは神の子でありながら、神の存在を再び知らしめるために、人の子という姿でこの世に派遣されました。神は相変わらず人間とは遠いところにいます。イエスは近しい存在ではありますが、「永遠の命」を与えるという神は個人と直接関わることはありません。

 

私は、これはとても心細く、寂しいことと感じます。もしかしたら、このような感情から三位一体論(神=聖霊イエス・キリスト)が生まれたのかも知れません。けれども私は神のことをぼんやりと思うことが出来るだけで、生命感や安心を感じることは出来なかったのでした。

 

キリスト教の歴史

 

純粋なキリスト教によって生きようとするなら、旧約と新約の両聖書のみを根拠とすべきでしょうが、どうしても、キリスト教徒が人類史において行ってきた所業を見てしまいます。初期のキリスト教は、司祭階級のパリサイ人に独占されていた、神と繋がる道を取り戻そうとする宗教活動でした。それは支配階級からすると自分達の立場を転覆しようとする行為と映り、キリスト教徒は迫害を受け続け、地下で活動を続けるより他なかった時代がありました。

 

その後、キリスト教は支配階級に取り込まれ、大衆をまとめる手段となってしまいました。堕落したキリスト教徒は、聖地を奪還するという名目の侵略を行い(十字軍)、罪の赦しをお金で買い取り(贖宥状)、教理と異なった方法で大衆と接した人達を迫害したりしました(魔女狩り)。勿論カトリックの中にも純粋に信仰を求めている人が大勢いたでしょうし、実際キリスト教の内部からも宗教改革運動は起こりました。しかし現代に至るまで、キリスト教を信奉するという欧米の国々は侵略行為を繰り返してきました。これが現在の、憎悪渦巻く世界情勢の元凶であると私は考えています。

 

イエスは人間に、再び神と共に生きる可能性・在り方を教えました。しかし今や、イエスの教えは殆ど忘れ去られてしまったようです。この二千年で、キリスト教徒はどれくらいの人を殺してきたのでしょうか。聖書だけを信じて、自分一人だけで神を信仰するという道が無いわけではありません。西欧の古典的な著作を読めば、知識人の多くはこれを試みているのがわかります。ただ、自称だけかも知れませんが、キリスト教徒を名乗る同胞を導こうとしないのは無責任なことです。私はキリスト教の歴史や、キリスト教徒の行いを学んでいくにつれ、これは自分の手には負えないものだと知るようになりました。

 

手厳しい批判を加えてしまいましたが、上記の批判は「人間のどうしようもない性状」──名誉、権力、金銭、快楽への執着──に対してのものであって、決して、キリスト教を信仰し安心して生きている個人に対するものではないことを言明しておきます。ましてや、信仰を惑わせようとする意図は一切ありません。私に安心の道があるように、彼にも安心の道があるのですから。

 

今回はこの辺りで。

南無阿弥陀仏