自信教人信の記

〈じしんきょうにんしんのき〉阿弥陀如来の本願、浄土真宗の先生達の思想について、自らの信心、思索を深め、人にも伝えようとするものです。

東日本大震災の日に思ったこと

2011年3月11日、東日本大震災が起こりました。この震災による死者・行方不明者の合計は18,456人に上りました。この未曾有の災害に対して、仏教者も何か出来ることがないかと考えたことと思います。テレビの報道で観たのは、「死者に対してお経をあげ続けることが私の出来ること」と語っていた僧侶の姿でした。葬式仏教と揶揄されるように、お経をあげることが僧侶の仕事だというのが現在の仏教に対する一般的なイメージだと思いますし、もしかするとこの僧侶も同じように思い込んでいたのかも知れません。しかしながら、お経に死者を成仏させる効能はありません。突き詰めて考えると、成仏を願って唱えるお経は自己満足でしかありません。ただ、もし遺族の方が僧侶のあげるお経でもって安心感を得ることが出来るとしたら、一定程度意義があることだとは思います。

 

日常的にも感じることですが、人間の力には限界があります。やろうと思ってもやれないこと、やりたくなくてもせざるを得ないことが山ほどあります。日常の瑣事においてもそうであるのに、ましてや、人間が死者を成仏させるようなことが出来るわけがありません。『歎異抄』第4条に、「おもふがごとくたすけとぐること、きはめてありがたし。」「今生に、いかにいとほし不便と思ふとも、存知のごとくたすけがた」い、とあるように、死者、その遺族に対してすべきことはお経をあげて救おうとすることではありません。

 

自力の可能性を考え抜けば、自分が他人に対して出来ることなど殆ど無い、という真理は自ずと明らかになります。しかしこのことは、自分が何もすべきではないということに繋がるわけでは決してありません。仏教者には仏教者の、やるべきことがあります。

 

還相回向

 

浄土真宗には「回向」という言葉があります。「回向」は「想いを差し向けること」を云います。そして、回向には「往相」と「還相」の二種類の方向があります。往相回向は、自分が浄土に往生したいと願うこと意味します(「欲生」=生まれたい願う、と言ったりします)。還相回向は、仏に成った暁にこの世に還り、仏の力でもって人々を往生させたいと願うことを意味します。同じく『歎異抄』第4条に「浄土の慈悲といふは、念仏して、急ぎ仏になりて、大慈大悲心をもつて、おもふがごとく衆生を利益するをいふべきなり。」「念仏申すのみぞ、すゑとほりたる大慈悲心にて候ふべき」、とあります。

 

仏教者として真に人々を苦悩から救おうと願うのであれば、先ず自分が仏になる必要があります。そうすれば、思うが如く人々を救うことが出来るようになるからです。自力で他人を救おうとするのは仏教者の仕事ではありませんし、出来ないからといって悩む必要もないことです。仏教者は自身のやるべきこと──先ず自分が仏に成ること──を心に留めておくべきでしょう。

 

当然このブログは、読んで下さった方の全てを救おうなどとは考えていません。一人でもいいので、人生のつまらない問題で悩んだり苦しんだりしないで、気楽に生きていってもらえたらなと思うばかりです。