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自信教人信の記

〈じしんきょうにんしんのき〉阿弥陀如来の本願、浄土真宗の先生達の思想について、自らの信心、思索を深め、人にも伝えようとするものです。

宗教書の読み方Ⅰ 〜宗教書の種類と読書論〜

 

これまで、私の宗教との出会いについてお話ししてきました。未だ、私が「南無阿弥陀仏」と言いつつある経緯に関してはお話ししていませんが、今回は話題を変えて、宗教書の読み方について思うところを披瀝したいと思います。

 

宗教書の種類と対象

 

一口に宗教書と言っても様々な種類のものが存在しています。ざっと挙げてみると、

 

①ある宗教の概要を説明するような入門書。信仰の対象、歴史、どんな宗派があるか等を、興味はあるけれども何も知らない人達に向けて書かれたもの。宗教体験の入り口になり得るかも知れない。

 ②キリスト教の聖書や仏教の経典(原典)などを文献学的に分析する論文。その原典の成り立ち、著者、成文年等を、同時代の文献と比較しながら検証していく。宗教的というより史学の趣きが強い。

 ③様々な宗教を、「宗教」という大枠で捉え比較研究する研究書。この宗教とあの宗教ではかくかくの共通点があり、またしかじかの相違点がある等々、文化人類学的視点から分析している。

 ④原典を逐語的に注釈していく、専門家向けの解説書。単語・文脈の意味・意義の解明に重点を置いている。その宗教を歩んでいる人、研究者向け。

 ⑤宗教的実践とその方法を教える著書。経、聖書、コーラン等。

 

というようなものが出てくると思います。これらは著者の興味や狙うところが違えば、対象となる読者も違います。それ故、想定外の読者が読んでも、面白くもない上に理解も出来ないということに陥ってしまいます。我々読者側は、自分が一体何を求めてその本を読もうとしているのかをはっきりさせておくことが必要です。仏教に興味があるけれどもどこから手を着けていいかわからないという人は、初めに①の入門書を読むのが順当で、いきなり②文献学的論文とか④注釈書を読んでも、何が書いてあるのか理解出来ず、興味も失ってしまう可能性があります。

 

読書には「前提」が必要

 

読書一般に共通することですが、あらゆる本には読むために前提とされるものがあります。それは、言語・歴史・文化的知識、専門知識、性状、立場、人生経験など様々です。例えば、小説を最も深く味わおうとするなら、舞台の地理的な環境、時代背景、どの文化圏に属するか等を先ず把握しなければなりません。そして登場人物の言動・心情を理解するためには、読者自身が似たような境遇にあったり、感情を抱いたことがある──程度の差はあるにしても──か、相応の想像力を鍛えておかなければなりません。

 

私が高校生の頃、ドストエフスキーを読んでもイマイチ理解出来なかったのは主にキリスト教の知識が足りなかったからですし、現在、曽我量深先生や安田理深先生の講話録がなんとなく理解出来るのは、この数年間、仏教関連の本を多く読み、かつ自分に引き当てて考えてきたからだと思います。

 

小説や人文科学系の著書と比べて、前提が無ければ話を聞いても理解出来ないということがよりはっきりするのが、数学や自然科学系のものでしょう。ある命題を理解するには、その命題を構成する別の命題を理解しなければなりませんし、またその命題を理解するにはまた別の命題…と続くので、一歩目から専門知識が必要です。知識が無いまま何度眺めてみたところで、書かれていることを理解出来る日は来ないでしょう。

 

今回は、宗教書を大きく5種類に分けて紹介し、また読書には前提が必要であることをお話ししました。次回は、「比較研究的態度」が宗教書理解にどのように働くかについてお話ししようと思っています。

 

南無阿弥陀仏