自信教人信の記

〈じしんきょうにんしんのき〉阿弥陀如来の本願、浄土真宗の先生達の思想について、自らの信心、思索を深め、人にも伝えようとするものです。

浄土真宗の一般的イメージ

一般的に、浄土真宗のキーワードといえば「南無阿弥陀仏」と答える方が多いのではないかと思います。そして実際にキーワードなわけですが、このブログではそのことにあまり触れてきていませんでした。自己紹介と勉強方法を通して少しずつ宗教を紹介してきましたが、そろそろ南無阿弥陀仏という浄土真宗の核心についてお話ししていきたいと思います。

 

その前に、浄土真宗について流布しているイメージを考えてみたいと思います。それは「南無阿弥陀仏を称えれば、死後に浄土に迎え取られる」というようなものではないでしょうか。この世は救いがたいほど苦難に満ち満ちており、自力では如何ともし難い。南無阿弥陀仏を称え、阿弥陀如来にすがって、死後に安楽な浄土に救い取って頂こう。大まかにはこのようなイメージでしょう。話として、ある種の考え方として分かりやすいですし、徳川幕府の人民統治の手段とも合致したと暁烏敏先生は仰っています。

 

このイメージで問題になるのは、①浄土とは何なのか、②そこに至るのは死後なのか、ということです。『観無量寿経』に、浄土を想像する方法が書いてありまして、それはそれはきらびやかな世界のようです。まあ形のことはさて置いて… 現在、私たちは人間として生まれる以前の過去世からの因縁(宿業)によって、悩み、苦しみ、不安を感じながら生きています。そしてこれを解消したいと願っています。浄土に生まれさせて頂ければ、仏に成ることが出来(成仏)、それは宿業から解放されることなのです。故に浄土とは、端的に言えば悟りとか涅槃とか呼ばれるものです。

 

次に、浄土に至るのは死後なのかという問題ですが、『無量寿経』には「(如来が)寿(いのち)の終る時に臨み」とあり、死後というわけではなさそうです。ただ、死後か死後でないかという話は、浄土に至るのがいつかということよりも、苦しみが除かれるのがいつかということと特に関係があると考えています。「往生」という言葉は浄土に往って生まれるという意味ですが、往く過程というのは南無阿弥陀仏を称えた時から始まっています。この世で生きている限り宿業の身ですから、苦しみや不安が完全に無くなることはありません。しかし、浄土への往生の過程にいると実感すると、大変楽になってくるのは確かです。

 

以上、浄土真宗のイメージとその問題点を考えてみました。次回から、南無阿弥陀仏と他力についてお話ししていきたいと思います。

 

南無阿弥陀仏