自信教人信の記

〈じしんきょうにんしんのき〉阿弥陀如来の本願、浄土真宗の先生達の思想について、自らの信心、思索を深め、人にも伝えようとするものです。

法蔵菩薩の十八願

前回は、浄土真宗について一般に流布しているだろうイメージと、その問題点に関するお話をしました。死後の世界が有るのか無いのか、またどんなものであるのか。私は実際に行ったこともなければ、科学的に証明も出来ないと思いますので語ることはしません。大事なことは、南無阿弥陀仏によって、今現在、往生に続く道を歩ませてもらっているということです。そしてそのことにより、安心して生きていくことが出来ます。

 

さて、浄土真宗の核心である「南無阿弥陀仏」のお話を始めたいと思います。南無阿弥陀仏という言葉は、「南無」と「阿弥陀仏」の二つに分けることが出来ます。南無とは、辞書には「仏・菩薩・経などを信じ敬い、それに帰依することを表す語。一般に帰依の対象となる語をそのあとに付けて感動詞的に用いる」とあります。南無と帰依する、頭が下がる、ということです。阿弥陀仏は、勿論、阿弥陀如来の名前です。つまり南無阿弥陀仏とは、私は阿弥陀如来に帰依しますという意味です。また如来の名を称えることから、(称名)念仏といいます。

 

では、何故私達はこの南無阿弥陀仏を称えるのでしょうか。その根拠は、浄土三部経と呼ばれる浄土真宗の三つの聖典、『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』のうちの、『無量寿経』に現れる如来の四十八項の願にあります。この四十八願阿弥陀如来が仏に成る以前、法蔵菩薩という修行僧であった頃に「私が仏と成る時に……でなかったとしたら仏には成らない」と、師である世自在王仏に誓った願(誓願)です。そしてこの中の、十八番目の願が南無阿弥陀仏と特に関係しています。十八願とは、

 

たとい、われ仏となるをえんとき、十方の衆生、至心に信楽して、わが国に生れんと欲して、乃至十念せん。もし、生れずんば、正覚を取らじ。ただ、五逆(の罪を犯すもの)と正法を誹謗するものを除かん。

(たとえ私が仏に成るとしても、全ての人々が、心を尽くして信じ願い、私の浄土に生まれたいと欲し、十度ばかりでも念仏する、もし生まれないならば仏には成らない。ただ五逆罪を犯すものと正法を誹謗するものは除く。)

 

そして、この願を含めた四十八願が成就しているので、心から阿弥陀如来を信じて浄土に生まれたいと願うものは往生することが出来るのです。阿弥陀如来に南無する。これが南無阿弥陀仏の由来であり、浄土真宗のエッセンスです。

 

自分の力では苦しみや不安は如何ともし難いと分かった人、死んでしまったほうが楽なんじゃないかと思い詰めてしまっている人は、南無阿弥陀仏の生活を始めてみてはいかがでしょうか。大いに励まされて生きていくことができます。

 

さて、何故、法蔵菩薩は十八願のような途方もない願を立てたのでしょうか。わざわざ「正覚を取らじ」という文言を付けなくてもよかったはずです。仏は無数におりますが、このような願を立てたと伝えられているのは法蔵菩薩だけです。思うに、法蔵菩薩自身が宿業の問題に非常に悩んでいたため、自分自身のことと同じように人々を憐れみ、「たとい、われ仏となるをえんとき…」という願を立てたのではないでしょうか。これは法蔵菩薩の大悲心と呼ぶ他ありません。無数の仏がいる中で法蔵菩薩だけがこの願を立てたと考えるなら、この願はあり得べからざる中にさらに有難いといえなくはないでしょうか。

 

親鸞聖人も法蔵菩薩の大悲心を賜り、誓願は親鸞一人がためなりけりと仰いました。自分には弟子は一人もいないと仰るのに、どうして亡くなる直前まで経釈を綴っていたのかを考えると、おそらく法蔵菩薩の願に対する感謝と恩返しの気持ちからだったのではないかと想像せざるを得ません。

 

結果的に親鸞聖人の弟子と呼べる人が多く生まれ、阿弥陀如来への信仰は現在にまで続いてきています。自信教人信とは言いますが、第一に法蔵菩薩の大悲心に感謝する心を持つことが必要だと感じています。

 

南無阿弥陀仏